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2014年2月『RE/PLAY(DANCE Edit.)』急な坂スタジオ


2010年2月16日火曜日

手塚です

We danceに、準備会から参加して様々な課程を経てきました。

感想として、ダンスのアーティストも少しずつ企画を自力で立ち上げる意識が生まれつつあると感じすごくうれしかったです。でも、もっとあってもいいと思っています。某かの問題意識を持って、別の物事だと思っていた何かを引き合わせたり、提示したり、問いを投げ込んだりするというのは、ダンスのシーンをより創造的なものにしていけると感じます。

私が今回、課程で持ち込みたかったけど、採用されなかった企画は例えばこんなことです。
もちろん、なんにも詰めてないので、突っ込み箇所は満載ですが、初期衝動として。

【採用されなかった手塚のアイデア】

1917年はおそらく私の祖母が生まれた年です。私の祖母はめっちゃ「モガ」(モダンガール)でした。だから、もしかしたら、1917年のことを考えるときに「モダン」という潮流について考えることになるのかもしれない、と思いました。(勘違いや飛躍があるかもしれませんので、もしそうだったらだだの恥かきなのですが、)

1)モダンという潮流について考える。
ダンスの場合、取り上げるべきモダンとはどんなことだろう
黒沢美香さんは唯一「モダン」を経て「ポストモダン」へと移行した人だ、と思いました。美香さんがどのように「モダン」を経たかと言えば、お母さんお父さんのスタジオからです。そこで、美香さんのお母さんあるいはお父さんをお呼びして、パフォーマンスや資料映像を含めたモダンダンスについてのトークをお願いする、というもの。

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モダンという時代に対しての抗いがどのような形で起き、現在にいたるか、という問いに対して、一つ言えることは、舞踏という形での抗いがあり、それが唯一と言っていい「日本発のムーブメント」が起きたということがあります。そこで

2)舞踏というムーブメントの起こりについて考える。
ということで、もちろん舞踏のどなたかをお呼びする、どういう方が良いかは私にはなんとも言えないのですが、ヒジカタタツミについて語れる人がいいのかもしれません。

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海外から日本にコンテンポラリーが大量に流入したのは、95年前後でしょうか?そういったリアクションとして基本的に「ジャパンコンテンポラリー」シーンはあるのであろうとも思います。あるいはそれらと2)の習合といってもいいかもしれません。流入してきたダンスの元々の潮流からは、日本のシーンは直接的に関わっていませんが、その流入した元のルーツというのは、ヨーロッパ、アメリカの文脈としてあり、そこが私たちが知るよりはずっと深くて多様だった、という印象があり、その中にジャドソンもあったのだろうと思います。そこで、

3)日本で活躍するコンテンポラリーのダンサーに、自分が影響受けたカンパニーについて、あるいはそのカンパニーや振付家のルーツについて、パフォーマンスを交えたトークをお願いする

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そうして、それらのすべてをあわせても語り切れていないダンスというのもがあるとすれば、そこには、全く違った経路の身体的な影響、あるいは潜在的な受け継がれた身体のようなものがあるかもしれない、それを「神聖さ」という言葉で言うことは可能だろうか

4)「神聖さ」という文脈で見ることができるダンスを見てみる
具体的には、ベリーダンス(トルコ)、フラダンス(ハワイ)、ジャワ舞踊(ジャワ)、神楽(日本)、お囃子(日本)、能(日本)

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5)1917年生まれのお爺さん、お婆さんを舞台の上にお乗せする。話を聞く。
だいたい92歳ぐらいのお爺さん、お婆さんなので、かなり難易度は高いと思います。でも究極に身体というものについて考える機会になるやもしれませんね。